KRMG-09 銃小動自式年〇五 舎廠工器兵田倉
 (倉田兵器工廠舎 五〇年式自動小銃)
 

北から東へ倉田へ・・・そして生まれた国産初の自動小銃



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詳細情報
正式名称 銃小動自式年〇五 舎廠工器兵田倉
(倉田兵器工廠舎 五〇年式自動小銃)
型番 KRMG-09
全長 約320mm
可動範囲 無可動(マガジンの着脱は可能)
備考 本製品は、1/2.7サイズの60cmサイズドールに最適になるよう調整されたドール用アイテムです。


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現在販売を終了しております。

参考価格:2980円(オークションの場合)
当商品は販売場所によって値段に若干の差でることがあります。




倉田兵器工廠舎 50年式自動小銃
1945年8月15日午前0時、ヤルタ会談での約定に基づいてソヴィエト連邦は日本との戦争に参戦した。しかし・・・宣戦布告の後、満州へ雪崩れ込む予定だったソ連軍は、北海道と新潟へ上陸、瞬く間に市街戦闘を繰り広げる。
これは連合国との約定に違反した行為であった。

8月14日の時点で連合国側にポツダム宣言受諾を通達していた日本政府は、アメリカ合衆国政府に事態の収拾を要請し、ソヴィエト本土進行戦に対して国民の一億防衛を宣言。
本来は米国との戦闘に準備された本土戦力の投入が開始され、水際での攻防戦が展開された。
翌16日正午、ポツダム宣言受諾に対する調印準備とソ連侵攻に対する、合衆国全権特使の搭乗した飛行機がソヴィエト軍機により撃墜されると、事態はより一層の急変を見せ、米国政府はソ連に対して24時間以内の日本撤退を通告。
ところが通告した直後に佐世保に向かっていた米国艦隊が、ソ連軍の航空隊の襲撃を受け、アメリカ合衆国をはじめとした連合国はソ連に対して宣戦を布告。
終わりかけた様に見えた第二次世界大戦は、第2幕目をスタートさせたのであった。
共産圏と資本主義の戦争・・・後に冷戦と呼ばれる戦争の始まりである。


倉田50年式自動小銃は、いわゆる第二次日露戦争と呼ばれた戦争終結の後、国防軍により正式採用、配備された初の国産自動小銃であるが、立派なコピー兵器である。
コピー元となったのは、第二次日露戦争の後半に差し掛かった1947年頃にソ連軍によって開発された有名なAK47である事は周知の事実だろう。
戦中、米国から大量に武器が供与された帝国軍であったが、米国人サイズと日本人サイズでの規格差は埋め難く、昔ながらの武器を手にする者が後を絶たなかったという。
武器支援が材料や食料支援に切り替わるのに時間は掛からなかった。
そうした中で、ソ連軍にAK47が供与されると、前線で戦う国防軍(1946年7月から国防軍になる)の兵士の中にも鹵獲したAK47を使う者が数多く見られるようになり、政府は倉田兵器工廠舎にAK47の研究とコピー量産を発注。
1950年に正式化され、以後10年ほど基幹武器として陸軍兵士達に親しまれた。
現在でも日本国内を見回せば治安維持当局を初めとして、様々な所で様々なヴァリエーションの物を目にする事が出来る。
もっとも、これはAK47系シリーズ全体に言える事であり、日本に限った話でもない。

倉田50年式を代表とする西側AK47がオリジナルと違う点があるとすれば、使用する弾がNATO弾系列規格である点と、現在ならばグラスファイバーや強化プラスチックが使用されている物が多い点が挙げられるが、東西見渡してもあまり銃自体の基本的な性能差がある訳ではない。
これはAK47の基礎設計が、実用銃としては一級品だったと言う事の証明とされている。